食事をした午後の穏やかな陽射し。
なんて心地いいんだろう。
でも、仕事や、まだやりたいことが残っている。
そう思えば思うほど強い眠気に襲われ、ついには「罪悪感の時間」をつくってしまう。以前の私は、そんな午後を過ごすたびに、自分を責めていました。
「集中力が足りないのかもしれない」
「食事の管理ができていないのか」
「もっと気を引き締めなければ」
眠くなるたびに、体の状態ではなく、自分の意志を疑っていたのです。でも、本当に午後の眠気は、払いのけなければならないものなのでしょうか。
午後に訪れる、引き潮のような時間
自然に移ろいがあるように、
人間の一日も絶え間なく動いています。
朝の静けさから、昼の満ちあふれるエネルギーへ。
そして午後になると、少しずつ活動が収束し、
夜へ向かっていく。
私にはその時間が、まるで引き潮のように感じられることがあります。
午前中に神経を使い、言葉を交わし、心を動かした日ほど、午後の静けさを強く感じます。
それでも以前の私は、眠気が訪れるたびにコーヒーを飲み、気持ちを奮い立たせ、もう一度ギアを上げようとしていました。
けれど、頑張ろうと力むほど、眠気そのものよりも、動けない自分への苛立ちが強くなっていったのです。
「頑張るべき」
「休んではいけない」
そう思うほど、眠気よりも、眠くなった自分を責める時間が長くなっていました。
「不調」と決めつけるのをやめてみた
午後に訪れる眠気や、思考がゆっくりになる感覚。私たちはそれを、「生産性を下げるトラブル」として捉えがちです。
けれど、あるときから私は、「眠気を払いのける方法」を探すのをやめました。
眠気が訪れたら、ほんの数分だけ目を閉じる。
深く息を吐く。
窓の外の景色を、ぼんやりと眺める。
何かを生産するための時間から、一度降りてみる。
眠気がなくなったわけではありません。ただ、午後の時間に対する感じ方が少し変わりました。
訪れた静けさを、不調ではなく、その日の自分に起きている自然な変化として受け止められるようになったのです。
心のあり方で変わった、短い休息
最近は、短い仮眠を取り入れる企業も増えているようです。
私の場合、「眠ってはいけない」と思いながら横になると、目覚めたあとにも、どこか後ろめたさが残りました。
反対に、「今は、少し休む時間なのだ」と決めて目を閉じた日は、同じ短い仮眠でも、起きたあとの感覚が違いました。
休息の長さだけではなく、自分がその時間をどう受け止めているかも、午後の気分に影響していたのかもしれません。
眠ることを失敗として扱うのか。それとも、その日の自分に必要な余白として扱うのか。その違いは、思っていたより大きなものでした。
ぎっしり詰まった一日から、降りる
慌ただしい暮らしの中で、私たちは一日のスケジュールに空白をつくらないよう、何かで埋めようとしてしまいます。
眠気が来たらコーヒーを飲み、無理に意識を覚醒させ、さらに予定を詰め込む。
以前の私は、ぎっしり詰まった一日をやり遂げることに、充実感や達成感を感じていました。
しかし、本当にそれだけが、満ち足りた一日なのでしょうか。
自分の体の状態を確かめながら、ときには速度を緩める。その時間に抗ってギアを上げ直すのではなく、ほんの数分だけ止まってみる。
何かを生産するための時間から一度降り、ただそこにいる。
こんな小さな寛容さが、日々の暮らしを静かに整えてくれるように感じています。
自分という波に調和していく
午後の時間をどう過ごすかという問いに、すべての人に共通する正解はありません。
その日の心の状態や疲労感、前夜の睡眠、季節の移り変わりによっても、必要な過ごし方は変わります。
午後に眠気が訪れたら、すぐに追い払おうとする前に、その日の自分を少しだけ確認してみる。
昨日は、よく眠れただろうか。
午前中に、気を張り続けていなかっただろうか。
今は、数分だけ止まる時間なのではないか。
すぐに答えを出す必要はないです。
自分の内側で起きている変化に気づき、その波をすぐに否定しないこと。整えるとは、案外そのくらい静かなことなのかもしれません。
